徳島県の吉野川の河原で5月21日、2人の「川ガキ」の結婚披露宴があると聞き、テントを持って参加しました。吉野川で、長く「川の学校」の「校長」をつとめ、3月27日に84歳で旅立たれた野田知佑さんの教え子たちです。披露宴と同時に、亡くなった野田さんへ、100人近くの人たちが黙とうをささげました。
●野田さんの愛犬「ガク」から4代目になる「マル」も、川ガキ披露宴に参加した。
川ガキとは川で遊ぶ子どものことですが、戦後、国内に1600を超えるダムが築かれ、清流が失われるのと呼応するように姿を消しました。そんな川ガキをよみがえらせようとしたのが「川の学校」です。これまでに500人を超える川ガキが育ちました。
「川ガキ再生」のきっかけは、2000年1月23日にさかのぼります。江戸時代に築かれた第十堰(写真下)を取り壊し、下流1キロに全長700メートルの可動堰を築く国土交通省の計画の賛否を問う住民投票があった日です。投票率は5割を超え、徳島市民の90%が反対の意思表示をしました。だが、国は建設の旗を降ろしませんでした。世界をめぐるカヌーイストとして知られる野田さんはその年、徳島県日和佐町に移り住みました。ダムや可動堰建設を進める国家と渡り合う難しさを、長良川河口堰の反対運動にかかわって胸に刻んでいたのです。
●披露宴の河原から、第十堰が見えた。もし、可動堰ができていれば、ここはダム湖に沈んでいたはずだ
野田さんは吉野川の住民投票のリーダーだった司法書士、姫野雅義さんに口説かれて徳島に移り住んだことになっていますが、これは2人の「あうんの呼吸」だったと思います。2人は、住民投票の後、川ガキをよみがえらせる「使命」に共鳴し合ったのです。お二人に共通していたのは、子どものころの川体験を語る時のキラキラと輝く目でした。
とても残念なことは、姫野さんは2010年の秋、徳島の南の川で鮎釣りしていて流れに巻き込まれてしまいました。数日後、行方不明になった姫野さんの遺体を見つけたのは、捜索に加わっていた川の学校の卒業生たちでした。僕は野田さんを車に乗せて、現場に行きました。野田さんは流れに近づくと、一升瓶の蓋を開け、ドボドボドボドボと酒を川に注ぎこみました。男は背中で泣くという言葉をこの時、目の当たりにしました。
川ガキの「生息状況」は、自然度を測るバロメーターであり、彼らを育てるのは大人の責務だと、野田さんと姫野さんは考えていました。川に近づかない子どもたちが増えたことで、清流の素晴らしさを知る人が減り、川は躊躇なく3面張りのコンクリートの水路に変えられ、ダムで流れを遮断されてしまったのです。人工化される川に、何の痛みも感じなくなってしまった人たちが、世の中の大半を占めるようになっていきました。
そして、川ガキは日本の絶滅危惧種になってしまいました。悲しい話です。
ここで悲しい話にしないのが野田さんであり、姫野さんでした。川の学校には二つだけルールがありました。
「親を近づけない」
「川で遊ぶ」
痛快です。河原披露宴の会場ではそんな川ガキやスタッフたちが野田さんに送る言葉を書いていました。長くなってしまいましたが、いくつか紹介します。
「ナマズはおいしい。あの世でいい川、探しといてね」
「のんびりいこーぜ、は最高です」
「野田さん、初めて会ったのは22歳になったころでした。日和佐の家に遊びに行って、こんな豪快でかっこいい大人がいるのかと感動しました」
「野田さんの家に家出したとき、『おお、よく来たな。しばらく川で遊んでいきなさい』と迎えてくれました。すでに野田家にはコトコも家出していて再会。学校を休んでたくさん川で遊びました」
「野田さんがいつも何も言わず、一緒にエビとりや川あそびをしてくれたから、今の私があります。のださんちは私の居場所でした」
この最後のメッセージを書いたのは、「たどりついた清流」と題する新聞記事で紹介したコトコです。今は九州で水産関係の仕事をしながら頑張っています。この披露宴でひさしぶりに再会しました。予定日9月というお腹を抱えて、ニッコリ笑った顔が素敵でした。
●15年前、四万十川を下る野田さん。カヌーの中には焼酎と大ジョッキグラスがあり、「どうだ一杯」とカヌー越しに渡された。
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