5月の連休中に、久しぶりに昔の鉄道事故現場を訪れた。兵庫県香美町の余部鉄橋。今は、架け替えられてコンクリート橋になっている。山の斜面に築かれた余部駅に上ると、昔のレールが一部だけ残され、その隣に敷設された線路を山陰線の列車が走っていった。隣の鎧駅につながるトンネルの黒い穴は、あの日と同じ形でこちらを向いていた。このトンネルを抜けた回送列車は強風にあおられ、先頭車両だけを残して40メートル下の地面に落ちた。1986年12月28日のことである。
兵庫県旧香住町の山陰線•余部鉄橋から回送列車が落ちたのは、年の瀬が押し迫った吹雪の日だった。
新聞記者になって4年目、買ったばかりの4WD車で泊まり明けの豊岡支局から現場に駆けつけた。支局へかかってきた垂れ込み電話で事故を知ったことで、他社より出足が早かった。現場に着くと、列車は道路を塞ぐように横たわり、カニ工場が押しつぶされていた。工場で働いていた5人の女性と、列車に乗っていた車掌が亡くなった。その名前は、いまも鉄橋下の観音像の台座に刻まれていた。
遠い昔のことだが、その無念さは測りしれない。
大きな事故があったとき、メディアは毎年その日になると必ず記憶をとどめようと振り返りの報道をする。余部事故でも何年かは続いたが、テレビ局や新聞社が長く熱心に報道していた記憶はない。私も翌年には転勤し、但馬を訪れる機会が減ってしまい、忘れ去っていた。
ただ一度だけ、2005年に尼崎市で起きたJR福知山線の脱線事故の取材にあたり、余部を訪れて文章を刻んでいた。
余部の事故報道は、時が経てば経つほど消えていった。なぜだろう。
運行の当事者だった国鉄が消えたこと、都会から離れた場所で取材記者が少なかったこと、そして、強風のなか列車を走らせた運行管理のずさんさが原因だと司法判断を受け、事故は決着した形になったことが、背景にあったのかもしれない。
ただ、あの回送列車の運行目的について書かれた報道を見た記憶がない。駆け出しの記者だった私も当時は知らなかったし、取材が甘かったと言えばそうかもしれない。実は、回送列車は国鉄が売り出したお座敷列車で、広報役を担っていたと先輩記者に聞いたことがある。あの日、国鉄広報は宣伝のため記者たちを乗せて香住駅まで送迎したのではないか。今となっては裏は取れない。新しい架橋を見て、元旦まで現場で取材を続けた記憶だけがよみがえる。
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