ミュンヘンにて

 シチリアのカターニアからドイツのミュンヘンへ飛んだ。

    イタリア半島を縦断するルートだ。地図を見ながら、あれがナポリ、あそこがベネチア、ポー川があれに違いないとワクワクしながら下界を見下ろした。

 もともとミュンヘンに行く予定ではなかった。なのに何故?
 それはコロナワクチンのせいだった。ミュンヘンなら確実なPCR検査を受けることができるだろうとの読みで、決めた旅程だった。

 そうなのだ。そもそも海外に出るのはいい。だけど、日本に帰国する場合、72時間以内に受けたPCR検査の陰性証明がないと飛行機に乗れない決まりだった。陽性だと、映画カサブランカ状態になるのだ。
 ウェイト ウェイト アンド ウェイト!

 陰性証明をめぐっては、日本政府の書式が面倒臭く、きちんと書いてくれないとの事前情報があった。そもそも検査場所が少なかった。それならと旧友のいるミュンヘンを選んだわけだ。こういう場合、なんとなく、イタリアよりドイツを信用してしまうのは、日本人の性である。

 ところが、ラッキーなことに、9月7日付で、陰性証明免除を政府が決めてくれた。ワクチンを3回打った接種証明を見せればイミグレーションは通過できることになった。

 実際、ミュンヘン空港で政府お墨付きの接種証明(日本語しかない)を見せたが、エミレーツの職員は「日本語読めない」と言うだけで、確認もされず、スルーしてくれた。なんだ、こりゃ。

 話を戻すと、ミュンヘン生活6日間はフリーになった。アラベルパークの近くのホテルを定宿にして、早朝に散歩に出た。朝靄が立ち込めていた。季節は完璧なほど秋である。そして、寒い。

 中心街のマリエン広場で無印良品を見つけて、長そでのボタンダウンとアンダーシャツと靴下を買った。東洋系の店員にサイズを尋ねると、「日本のサイズのひとまわり下のサイズを選ぶといいですよ」。久しぶりに聞くジャパニーズ。ほっこりする。しめて5000円ほど。日本より少し割高だ。Sサイズを買い揃えて、シチリアの短パン、Tシャツ、ゾウリ生活から脱却した。
 ミュンヘンは学生時代の貧乏旅行と、新聞社時代の出張取材と私的旅行と、3回訪れたことがある。街中を流れるイザール川が美しい。
 この川はドナウ川に合流し、黒海へ注ぐ。ロシアに侵攻されたウクライナ南部の湖に、この水は流れ込むのだと考えると、こんな能天気な旅をしている場合じゃないぞ、とも思う。

 それで触発された訳ではないが、13日、ミュンヘンから約20キロ離れたダッハウへ行った。ナチスドイツの強制収容所がある街だ。収容所は1930年代に作られ、約20万人のユダヤ人やコミュニスト、ポーランド人らが収容され、2万4千人がここで死んだ。
↑ 収容所の入口は、頑丈な鉄の扉でできていた。
 中に入るととにかく広い。イメージとして万博公園ぐらいあるかもしれない。そして、当時の収容所跡の建物を、戦争を伝える資料館に改造していた。驚いたのは多くの高校生たちが続々と見学に来ていたことだ。修学旅行だろうか。入場料は取っていない。
↑ イタリア人のグループもいた。

 そこの展示品の中で一枚の地図を見つけた。
 この地図は、1942年のヨーロッパの地図である。

 灰色が第二次世界大戦でドイツとイタリアに侵略された地域である。ウクライナはそっくりドイツ領になっている。イタリアもアルバニアやギリシャを侵略している。ヒトラー、ムッソリーニのファシスト政権によるヨーロッパ支配の様子がはっきりする。ヨーロッパは国境を踏み超えて、侵略の歴史が続いてきたのだと現場に立つと実感する。なかなか、島国日本にはわからない。

 同じころ、日独伊三国同盟を結んだ日本も朝鮮を植民地にし、中国には満州国という傀儡政権をつくり、東南アジア諸国を支配下に置いていった。

 ダッハウ強制収容所は、ロの字型に建物が並び、中に入ると回廊のようになっている。様々な写真、ポスター、亡くなった人の日記、寝床、鞭、映像フィルム、犠牲者名簿・・・。数えきれない展示物があった。正視できない写真もあった。それはわずか、80~90年前の出来事であることに愕然とする。
 長崎で生まれ、広島で大学に通った身からすると、二つの地の原爆資料館よりも、戦争を次世代に伝えようとする「気魄」の違いが感じられた。


 何が違うのか。最後の部屋に、ここで亡くなった犠牲者の名簿が、分厚い本になって展示されていた。ヒトラー率いるナチスドイツによって殺された人たちの名前と生年月日、死亡した日と場所が書かれている。そこにはユダヤ人だけでなく、共産党員、ポーランド人など国籍、思想信条の違う人たちも大勢いた。

 確かに広島、長崎は原爆死没者名簿をつくっているが、それはあくまで被害の記録である。日本軍が殺したアジア諸国の民間人の名簿を、見たことがない。日本の場合、加害の記録がすっぽり抜け落ちており、歴史修正主義者たちによって、美談にすり替えられようとしている。


 この収容所でドイツの「気魄」を感じた。それは、自国の犯した過ちを後世につないでいく強固な姿勢といえるだろう。


 イタリアのバドリオ首相という人は、日本であまり知られていない。1943年、ムッソリーニを引きずりおろして、連合軍と講和を続け、早々と白旗をあげた人だ。そのためにフィレンツェやミラノは壊滅を免れた。


 一方、日本は1億玉砕という威勢のいい軍部の声に乗って、沖縄が焦土となり、広島、長崎に原爆を落とされた。負けが分かっているのに、誰も戦争を止める決断ができなかった。


 異国に来て思うのは、あの戦争で、わが祖国のリーダーのふがいなさだ。作家の半藤一利さんは、日本人の二つの特徴を挙げた。「当座しのぎの根拠なき楽観性」「排他的同調性」である。


 ダッハウ強制収容所で見た映像資料は「この責任はだれがとるのか」の字幕で終わっていた。


 きっと、だれも戦争の責任はとれないだろう。だが、ここを訪れる若者たちに熱心に語りかける大人たちがいた。若い世代に伝えていく地道な営みに、まだ救われる思いがした。そのメッセージは、「殺すな」のひとことに尽きるだろう。

 今、ドバイ空港で最後の旅ブログを書いている。あと、1時間半ほどで、関空行きが出発する。
 Wi-Fi の具合もあまり良くないので、ここらで投稿しておきます。

 9月15日午前1時34分、ドバイ空港にて。


 



 


定年後、荒野をめざす

五木寛之の「青年は荒野をめざす」に感化され、22歳の春、旅に出た。パキスタン航空の格安チケットを手に入れ、カリマーのアタックザックひとつでアジア、ヨーロッパをさすらった。そして再び、旅心に囚われ、36年間勤めた新聞社を辞め、旅に出る。(中村 正憲)

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