知らない土地に行くと、必ずすることは、まず宿探しだった。その町の駅に着くと、必ずツーリストインフォメーションがあり、そこで市街地図をもらった。無料だった。大体、ホテルの名前が載っていた。町をぶらつき、目星をつけたホテルに入り、フロントで「how much per night?」と聞いた。
部屋は空いているか? ではなく、単刀直入、一泊いくらかと聞く方が、話は早かった。
パリでもバルセロナでもデリーでもカトマンズでも、そうして格安の宿を見つけた。まだ学生だった1980年代の話である。
今は、まったく違う世界になってしまった。昔のやり方をすると、フロントでつまみ出されるのがオチだ。素性がわからないことほど、今の世界、怖いことはない。相次ぐテロ事件を見たら、容易に想像がつく。
今どきの宿(中級以下)は、まずフロントに簡単にたどり着けない。いや、フロントのない宿がどんどん増えている。B&Bや、民泊が増えているという事情もあるだろう。
ブッキングコムやエクスペディアのネットサイトで予約して、返信メールを頼りに指定されたホテルやB&Bの場所に行くと、よくメールアドレスや携帯番号の書かれた張り紙がある。たいてい「WhatsApp(日本のLineみたいなもの) で連絡をくれ」と書いてある。連絡すると、パスコードが送られて来てその数字を入力するとドアが開く。すると、さらにカギのかかったドアがある。WhatsApp の文章を読むと、右手の引き出しの中にある黄色のカギを使え、とある。それで、2番目のドアを開ける。そうこうしてるうちに、家主がやって来て「ようこそ」と部屋に案内される。
これは、上手く行った例だ。チェックイン時間の前に到着すると、家主や事務所と連絡が取れず、玄関の前で座り込んで途方にくれることもままある。もちろん、上級ホテルを使う人は、こんなことはおそらくないだろう。
さて、ナポリ滞在8日目となった。少しずつ、この街の臭いに慣れ、通りの歩き方や、買い出しの仕方などがわかって来た。
だが、深夜帯に宿に戻る時が一番緊張する。今、二つ目の宿にいるが、どちらも三つの関門をくぐり抜けなければ部屋に戻れなかった。それはもう、アトラクションと言っていい。この写真が最初の関門である。普通のビジネスビルの上階にアルベルゴ(イタリア語でホテルのこと)はあり、宿泊者はこの共用玄関から、入らなければならない。
オフィスと兼用のガラスドアの左に、キータッチする番号表示板がある。そこに、知らされた6ケタの番号と#を入力すると、カチッと音がしてドアが開く。
二つ目の関門が冒頭の写真。ここの木のドアを開ければ、中にアルベルゴの部屋が4部屋並んでいる。左側のキーボードに指定された別の6ケタの番号と#を入力しても、ドアはうんともすんとも言わない。手書きの紙を見ながら、10回ぐらい挑戦した。でも、開かない。
午後11時前である。ここの宿にフロントはない。別のビルに事務所はあるが、すでに閉まっている。WhatsApp でメッセージを送った。
Non posso aprire mia camera!
返信されたのは、「ありがとう、9時に開くよ」という機械的定型メール。明日の9時までどうしろっちゅうねん! イラッと来た時は関西弁になってしまう。電話した。ビデオ通話もした。まったく返答がない。
すると救世主が現れた。中の客室の住人が物音に気付いたのか、中からドアを開けてくれた。英語を話す紳士は、このドアはプロブレムだと言って顔をしかめた。彼も同じような経験をしたのだろう。グラッツェ、サンキュー、ありがとうと三カ国語でお礼を言って、三つ目のパス番号を打ち込んで部屋に戻った。
それが6月5日の出来事だった。
翌日、イタリア語の予習をして、事務所に行った。
昨夜、鍵が開かず、部屋に入れなかった。番号が違うんじゃないか。あなたたちに電話したが、誰も出ないじゃないか。マンマミーアという言葉でしめた。
若い女性事務員は困惑した顔をしたが、隣に座っていた年配の女性が、何やらまくし立てて、「この番号は違う。これだ」と別の数字をメモに書いて渡した。勝ち誇ったような顔に返す言葉がなかった。謝りもしない。僕は、何も言い返せなかった。というか、イタリア語のボキャブラリーの貧困を嘆いたのだった。
ナポリに限らず、イタリアの宿は鍵を開けるのに一苦労する。そのノウハウを熟知することが、イタリアの旅を上達させるキーポイントです。
定年後、荒野をめざす
五木寛之の「青年は荒野をめざす」に感化され、22歳の春、旅に出た。パキスタン航空の格安チケットを手に入れ、カリマーのアタックザックひとつでアジア、ヨーロッパをさすらった。そして再び、旅心に囚われ、36年間勤めた新聞社を辞め、旅に出る。(中村 正憲)
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