黄色と赤に染まる街、レッチェ


 かねてからの夢は、ぶらりとスタジアムを訪れ、サッカーを見ることだった。それもドイツやイタリアなら文句なし。昨日、その夢がかなった。場所はイタリア南端のレッチェ。


  留学先のオトラントからレッチェまで、車で40分。大阪府警の門真試験場で国際免許は取っていたので、レンタカーを予約し、左ハンドル車の運転をイメージトレーニングしていた。

  レンタカー代は1日40ユーロ、保証金が700ユーロと言われ、たじろいでいたところ、同じ教室でイタリア語を学ぶアメリカ人、ボブに目をつけた。彼がルノーの車を持っており、誘ったら、一緒に行こうとなった。ラッキー。
   
   ●アウエー側のゴール裏で15ユーロ。スタジアムでチケットは買えるが、パスポート必携。クレジットカードは使えない


 レッチェは人口9万。オトラントの18倍の人が住んでいて久々に見る都会だった。歴史は軽く2000年を越えていて、奈良県明日香村なんて足元にも及ばない。この街のサッカーチームがUSレッチェで、赤と黄色のユニホームが特徴だ。


   故郷がレッチェの有名な選手は、サッカーファンなら必ず記憶に残っているはずだ。
   イタリア代表のマルコ・マテラッツィ。
   2006年のドイツワールドカップでジダンに頭突きされたあの選手だ。ジダンを切れさせたという言葉が
   Preferisco la puttana di tua sorella.

  お前の姉ちゃんより、娼婦がましだ、という意味か。

 ま、それはともかくレッチェは今、イタリアのプロサッカー2部リーグのセリエBに所属する。試合開始の40分ほど前に本拠地「ビア・デル・マーレ」のスタジアムに着くと、黒シャツや、黄色と赤の縞々のシャツを着たファンで混雑していた。


   警官にチケット売り場を訪ね、列に並び、「一番安い席を」と言って15ユーロでゲットした。パスポートを提示しなければ売ってくれないので要注意だ。

 試合開始は午後3時。同じプーリア州のフォッジアとの対戦だが、フォッジア側のゴール裏に陣取ったところ、ここも黄色と赤で埋まっていた。本当のフォッジアファンの応援席は金網に囲まれ、監獄さながら。甲子園のヤクルト応援席よりも悲惨だ。

   チャンスになると後ろのおじさんが「バイバイバイ」と叫ぶ。となりの兄さんも「バイバイ」と言う。イタリア語で、君は「行け行け」という意味だ。

●赤と黄色のレッチェ色に包まれたスタジアム

  試合は後半14分にフォワードのマンティがヘッドで先制。その1点を守りきったレッチェがフォッジアを下した。4位に浮上。



  スタジアムの観客は少年少女からおじいさん、おばあさんまで幅広い年齢層で埋まっていた。入場口に並ばなかったり、椅子が汚れていたり、煙草吸い放題だったりと、突っ込みどころは色々あったが、青い空に赤黄色の服が映え、プレーに一喜一憂するスタンドの一体感にこちらも熱くなってしまった。


  ●フォッジアファンの応援席は金網に囲まれ、孤立していた


●レッチェの選手が倒されると、フォッジア選手へ口笛の抗議が続く

  スタジアムで驚いたことがある。アルコールはおろか、食べ物を売っていなかった。暴動対策か? ミュンヘンやミラノのスタジアムでは、ビールを何杯も飲んだ覚えがある。レッチェファンはただ、試合観戦のために来るのである。本当にサッカー好きな人たちに心底感動した。

   帰り道、サレントの平野がレッチェ色に染まっていた。

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五木寛之の「青年は荒野をめざす」に感化され、22歳の春、旅に出た。パキスタン航空の格安チケットを手に入れ、カリマーのアタックザックひとつでアジア、ヨーロッパをさすらった。そして再び、旅心に囚われ、36年間勤めた新聞社を辞め、旅に出る。(中村 正憲)