南イタリア はオトラントの中心に大きな教会がある。観光ガイドや旅のブログでは「オトラント大聖堂」と紹介されている。だが、地元の人たちは「Cattedrale i martiri」と呼んでいた。
中央の聖母像は生まれた子を膝に乗せ、手を合わせている。おそらくこの子がイエス・キリストか。生と死の強烈な空間だ。骸骨たちは、どんなメッセージを発しているのか。いや、骨たちを通して生者は誰に何を伝えようとしたのか。
オスマントルコの悪業か、キリストの偉大さか、信念を曲げない人間の意思の強さか。
あの世に行けば、大地に回収され、次世代の人たちの思い出の中だけに生きて、やがてそれも忘れ去られていく。そうした死生観の中で育った日本人としては、骨を飾る思考がどうにもよくわからない。
亡くなった人たちもなかなか落ち着けないだろうに。死ねば、落ち着くも何もないのだろうけど、キリスト教に殉じた人たちの気持ちもそうだが、それを後世に伝えようとする残された人たちの強い意志には、ただただ平伏するしかない。
この公園は、高校卒業後に僕が通っていた長崎高等予備校の隣だったので、ちょくちょく散歩に行った。殉教なんぞという行いについて、薄っぺらな十代の脳裏に何も残っていない。
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