古来、歌に詠まれた桜は数々あれど、この桜ほど人々の心に残る桜はないだろう。
いま、満開の時を迎え、時折の風に花びらが舞っていた。緊急事態宣言のさなか、大阪の南のはずれの寺に来て、人ひとりいない庭にたたずみ、眺めていると、この桜の下で死ねたら本望、という思いが湧いてくる。平安時代のあの人のように。
大阪府河南町にある弘川寺の境内の桜は、地面すれすれに枝を伸ばしていた。
西行はここで入寂した。
あの歌を残して。
願わくは 花の下にて 春死なむ
そのきさらぎの 望月のころ
1196年2月16日。まさに如月の望月のころ、西行は鬼籍に入る。
歌を刻んだ石碑が、西行墳のそばに建っていた。なかなか読めないひらがなではある。
天皇に仕える超エリート「北面の武士」だった佐藤義清は23歳で世を捨て、出家した。高貴な年上の女性と道ならぬ恋に破れてのこととの説もある。そして、西行は漂泊の歌人として旅を重ね、各地に庵を結び、73歳まで生きた。
西行を、まねたかどうかは知らないが、芭蕉も漂泊の俳人だった。弘川寺にある西行記念館をのぞくと、芭蕉の句が展示されていた。
西行の庵もあらん 花の庭
どこの庵のことだろうか。先輩歌人への崇敬がにじみ出ている。
そういえば、このブログ「定年後、荒野をめざす」は昨年初め、芭蕉の辞世の句に触発されて始めた。
旅に病んで 夢は枯野をかけまわる
病む前に枯野をかけまわろうと。昨年は世界を駆け回ったが、今年はコロナに阻止されてしまった。
芭蕉は、大阪の御堂筋の南御堂あたりでこの句を詠んでまもなく逝った。そうなのだ。芭蕉も西行も大坂で死んでいる。なんという偶然かと驚いてしまう。
コロナ禍のさなか、新聞でイスラエルのハラリという歴史学者の言葉が目に留まった。人類の三大脅威とは何かという問いに答えていた。
戦争
飢饉
疫病
いま、世界中が疫病の脅威に襲われている。幸いに世界規模の戦争、地球規模の飢饉には見舞われていない。
だが、西行が生きた平安から鎌倉期にかけて、日本は三大脅威の下にあった。
方丈記で、鴨長明は「養和の飢饉」(1180年ごろ)について書いている。
「人数を知らんとて、四、五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける」
今風の新聞見出しにすれば
「京都で餓死者4万超」となる。
保元平治の乱で都は疲弊し、天下を取った平清盛は疫病(マラリア)で死んだ。まさに三大脅威の中にあったのだ。
清盛と西行は同い年で、二人とも北面の武士だった。今で言えば北面の武士とは、さながらサッカー日本代表と例えたのは編集工学研究所の松岡正剛氏。
盛者と漂泊者と人生は分かれたが、三大脅威の中を生き抜いたことは変わりない。
死に方は、西行のほうが幸せだったか。
弘川寺の散る桜を見て、思いをめぐらせた。
定年後、荒野をめざす
五木寛之の「青年は荒野をめざす」に感化され、22歳の春、旅に出た。パキスタン航空の格安チケットを手に入れ、カリマーのアタックザックひとつでアジア、ヨーロッパをさすらった。そして再び、旅心に囚われ、36年間勤めた新聞社を辞め、旅に出る。(中村 正憲)
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