イダシュベツ川の恐怖——知床冒険譚

※この記事を書いたのが2月15日。それから2カ月余りたった4月23日、僕らがゴムボートでたどったコースで知床遊覧船が沈没し、多くの犠牲者を出した。まさか、である。

 オホーツクの流氷に沈む夕日を見た。氷面に近づくにつれ、薄い氷の部分だけが赤く染まった。それはそれは幻想的な光景だった。

 1978年夏に知床連峰の硫黄山から見たあの日の夕日もそれはそれは美しく、ふいに思い出してしまった。翌日の地獄の山行とともに。

  広島から2日半の汽車旅の後、1978年7月19日のタ暮れ、僕たちは北海道羅臼町の登山口へたどり着いた。広島大学ワンダーフォーゲル部のパーティーは僕を含め7人。テントや食料に加え、2個のゴムボートと7本のオールをかついで、羅臼岳から硫黄山を越え、オホーツク海へ乗り出し、知床岬を回るという奇想天外な計画を立てていた。

↑ 雪をかぶった羅臼岳山頂
(2022年2月12日)
↑ 1978年夏、僕らがたどった知床の道。ボートをかついで羅臼岳と硫黄山に登り、オホーツクに漕ぎ出そうと計画した。だが、途中のイダシュベツ川に迷い込み、道を失った。

 今、冷静に考えると、なんでこんな破天荒な冒険をしたのだろうとしみじみ思うのである。以下は学生時代に書いた登山記録から抜粋した。

 7月20日未明、僕らは羅臼温泉から羅臼岳へと向かった。テントと10泊分の食料に加え、6人乗りと4人乗りのゴムボー ト2艘、オール7本いう論外に重い装備を背負っての登山である。軽量化には注意が払われ、その矛先がまず米の減量にきたのは痛かったし、水制限にきたのも辛かった。とにかく軽量化 には成功して、僕のザックで重さが27キロぐらい、6人乗りボートを持つHさんのザックが34キロぐらいだった。

  しかしやはり、こんな重い物を持って羅臼岳の1660メートルのピークを極めることは無謀だと思われた。夜明け前の暗さの中、前を行くサブリーダーの足元だけを見つめながら一歩一歩、足を運ぶ。サブリーのKさんのヒグマよけの鈴が響きまくって、かえって恐怖が身にしみてくる。

 それというのも、旅の準備としてあの本を読んだからだ。
 「ヒグマとの戦い」。1970年の夏、福岡大学のワンゲル部員3人が、日高のカムイエコウチカウシの山中でヒグマに食われて死んだ事故だ。

 「ああ、ここは広島の山じゃないんだ。ヒグマがたくさんいる知床という秘境の」と思うたびに背筋に冷たいものが走った。 しかし、何度かピッチを置くごとに、疲労が恐怖心をとり払ってくれた。そしてキスリングという怪物はヒグマより恐いんではないかと思ったりもした。

 と、さっきまで汗でぐっしょりぬれて不快だった僕の体を 冷たい空気が通り抜けていった。割となだらかな登りに変わった所で雪渓 が眼前に現れた。歩きながら雪を一握りつかみ、口に含むと疲れがふっとんだ。そうこうするうちにラウ ス平という素晴らしいテン場に着いた。

 北東 に三ツ峰、南西に羅臼岳がそびえるだけで、視界をさえぎるものは何もなかった。 

  11時30分、標高1660・7メートルの羅臼岳頂上に立った。足元を雲が流れてゆき、その流れていく方向に目をやると、雲海の上に国後の山並が見えた。この時生まれて初めて「外国」を見た。戦争に負けて、ソ連に奪われた北方領土である。北にはオホーツク海が広がり、知床五湖も絵のようだった。

 はるか知床岬の方向には明日のテン場、硫黄山が見えた。 

 7月21日午前4時、羅臼岳を背にして羅臼平を出発。午前5時、サシルイ岳1564メートルに到着。あっという間に今日の行程の4分の1が終わった。 くっきり晴れ上がった朝の山容の美しさもあってか、みんなの心は今日の楽勝を確信したようだった。
 
 しかし、しかしである。山がそんなに甘いわけはなかった。北海道とはいえ、夏の太陽は僕らに容赦なかった。軽量化のための水制限で、喉は乾き、汗で水分が奪われていく。陽が高くなるにつれてシビアーさは増した。

 硫黄山のテン場が近づいてきて、手が届きそうになった時、急斜面が眼前に立ちはだかった。まさか、まさかこれを登るわけはないだろう、と思う暇も与えず、前進していくサブリー。「よおし最後の登りや一息だ」と力んではみても、それに答えてくれない僕の両足。5、6歩進んでは休み、後ろを振り返っ てはまた根性を出して、ゆっくりゆっくりはい上がり、やっと登りつめた頃には、真夏の正午近くのお日様は僕の体からどんどん水分をとっていく。

 それからその日泊まるテン場を見つけたのはよいが、頼りにしていた水場(雲渓)が見当たらない。赤茶けた土とガレ場と水気のない高山植物。要するに水分がない。ポリタンの水も残り少なく、苦笑いの気力すらなく、 ピッチを置いた所でヤ ブの中のわずかな日陰に頭だけ突込んで僕ら1年3人はダウンした。

 サブリーが雪渓を見つけに降りて行った。結局2分くらい降りた所に雪渓が見つかり、安心してテントを張った。そして、吐くほどに雪解けの水を飲んだ。ザックを降ろしてからというもの、歩くのがどうしても前のめりになるのである。この日見たオホーツクに沈む夕日は、思い出にするにはもったいないくらい鮮明だった。

 7月22日、いくらC1の羅臼の登りが、C2の硫黄山までの喉の渇きがシビアーだったと言っても、この日にくらべれば赤子の手をひね るくらいのものに思えた。
 
  この日の行程は、山を降りて海に出る、ただそれだけしかなかった。

 知床半島の北端には歩ける道はない。硫黄山からの下山路にはこの山が火山である事を示す噴出ロが何ヵ所かあった。やがて知床林道へ出た。 オホーツクが眼下と言っていいくらいすぐそばにあった。だが、そこは断崖絶壁のため、海へ降りることができない。13キロウトロ側に歩いてイダシュベツ川との交差部分から川沿いを歩いて海へ出る。それが、地図上では、もっとも適切な計画に思えた。

 「イダシュベツ」とはアイヌの言葉で「トドの来る川」という意味だ。僕らは、今日中にその川沿いを降りてオホーツク海へ出るつもりであった。標高差で300メートル。距離にして3キロ足らずの川沿いには道がついているという情報を、リーダーが得ていた。だが、それはとんでもない誤りだった。

 最初、左岸沿いに踏み跡らしき物があったので、そこを歩いて行った。しかし20歩といかないうちに、それはすぐ消えた。ほかの場所に道らしき道もなかった。あるものと言ったら密生したヤブとアブとヒグマの瓜跡だった。

 幅10メートルもない小さな川だったが、流れは速い。その流れの音は、一人一人の会話を遮断した。 休憩を取るたびにアブの群れが押し寄せて来て体のいたる所にとまった。川の色は無気味な薄緑色をしていた。硫黄分を含んでおり、飲み水にも使えない。残りの水は2リットルポリタン5個分くらいしかなかった。

  2時間たち、午後3時、4時となっても海は見えなかった。喉が渇いても川の水は飲めない。ヤブの切れ目から知床林道が上の方に見えた。歩みが全然進んでないことに気付き、落胆した。 知床の日暮れは早い。だんだん薄暗くなってきた。不安は徐々に増してゆき、ピッチを置いても誰も喋らなくなった。薮と勾配で川沿いを歩けなくなると、水の中を進んだり、尾根に取り付いたりした。尾根が切れるとまた川に降りた。ジャングルみたいな所を進んだ。
 
  僕は手も顔もすべて皮膚の露出している部分は、アブに刺されてはれ上がり、棘で傷ついた部分は血ががにじんでいた。その傷の痛みも、午後5時、6時となるにつれて、だんだん感じなくなってくる。しまいには、手にとまったアブを追い払う気力すらなくなってしまい、ただ目の前の木を払って自分の次の一歩をどこにどう置くかということしか頭になかった。 

 あたりはしだいに闇が迫り、そろそろヒグマの行動時間帯に入って行った。 たかが3キロちょっとの川を、7時間もかけて歩いても海に出ることができないのは、おそらくワンピッチの行動は300~400メートルくらいだったのだろう。最後のピッチを置いた時、そういう話をしているリーダーの声を聞きとった。不安と疲労は極限まで達した。

  午後6時半頃、再びオホーツク海に出る望みだけに頼って、薮の中を進み始めた。もうすでに夜の暗さだった。僕は惰性で薮をこいでいた。腕時計の針が午後7時をまわった。ヒグマが恐かった。とにかく海に出たかった。やるせなかった。 


 午後7時10分頃、ザイルを張って、一人ずつ急流を右岸に渡った。左岸は急斜面でテントを張れそうになかったからだ。 川の水は、深い所で太ももくらいまであった。キャラバン靴も靴下もニッカもとっくにぬれていた。そして右岸の平たい所のヤブをとり払ってテントを張った。真っ暗だった。よくこういう所にテントが張れるなと思うくらい、密生したヤブだった。
 
 「もしかして今夜ここに泊まるのか? こんな沢沿いの最も熊の好みそうな場所に」と考えるだけで、心臓がキューンと張りつめた。 とうとうオホーツクへ出ることはできなかった。食料の入ったザックはテントの中に入れた。外に出しておくと、ヒグマをおびき寄せることになる。福岡大学のメンバーはそれで失敗し、死んだ。晩飯ものどを通らず、みんな何もしゃべらなかった。水も少なく、渇きは極限まできていた。

 リーダーがラジオをつけると、ちょうど広島市民球場でプロ野球のオールスターゲームをやっていた。世間の人々の歓声に、ますます気が滅入ってしまった。それからすぐ寝る準備にとりかかり、みんなぬれたままザックを枕にして横になった。この時、メンバーの一人が懐中電灯の灯りで遺書めいたことを書いた。 本当いうと僕もものすごく怖かった。就寝前、サブリーがヒグマよけの爆竹を鳴らしまくった。その音は一帯に響きわたった。 
 
 「これで本当にヒグマよけになるんだろうか。かえって近付いて来るのではないだろうか。知床には北海道のヒグマの60%がいると誰かが言ってたな」 

 頭の中で考えることと言ったらそんなことばっかりで、結局運命という言葉に全神経を集中させ、眠りについた。真夜中だったのだろうか、爆竹の音に目を覚ましたぐらいで、熟睡しきっていた。 
 
 サブリーの「起床」の声を聞くことができた。
 みんな生きていた。
 それから朝食をとり、テントをたたんで川を渡り、再び歩き始めた。あたりはまだ薄暗い。ひょっと、薮の中からヒグマが出て来そうな雰囲気である。 1時間ぐらいヤブコギを続けた。全く昨日と同じような感じだった。やっぱり海は見えない。薮も切れることを知らない。そしてリーダーに元気づけられて再び行動を開始した。

 約1時間ぐらい歩いただろうか。千島ザサの薮の尾根を右側に登ると、下の方が切り立っていた。密生した木々の切れ目から岸辺に打ち寄せる波が見えた。どうみても川の流れの方向とは逆だったし、川ではなかった。

  「海だあ」。サブリーが叫んだ。歩調が速くなり、薮がまばらになって視界が開けた。眼下にオホーツク海が見えた。生まれ落ちてこの方、こういう種類の感動を味わったことがなかった。それから30メートルくらい歩くと急な勾配があって、そこを一気に滑り降りた。

 海岸の岩の上を歩くと、無性にうれしさがこみあげてき た。 みんなの顔が初めてほころんだ。沖を1隻の漁船が白い線を残して通り過ぎて行く。 のどかな夏の一日の始まりである。
↑  当時、使っていた国土地理院の5万分の1地形図


 海に注ぎ込むイダシュベツ川の流れの奥の方を見やると、うっそうとした密林が続いていた。二日かけてようやくたどり着いたオホーツクの海水に素足を浸し、うれしさをかみしめた。 知床は怖い。今でもあの薮の中の木についたヒグマの瓜跡が脳裏に蘇る。

 それから僕らは4日間ボートをこぎ続け、知床岬にたどり着いた。 しかし灯台の下に立てたのは5人だけだった。岬へ着く前日、リーダーの顔は漆のかぶれで2倍に腫れていた。もう一人のかぶれも深刻だった。彼らは岬の避難港(文吉湾)から漁船に乗せてもらってエスケープした。きっとあのヒグマの瓜跡のついていた木は漆の木に違いなかった。


 残る5人で知床岬へ歩いた。そこから羅臼側の番屋まで歩き、漁船に乗せてもらい、エスケープした。こうして、ワンゲル部の夏合宿は終わった。



 結局、メンバー全員が早い遅いの差はあっても、漆にかぶれ、皮膚にぶつぶつができた。僕も帯広で病院に行き、ばかでかい注射をうたれた。自然というものの本当の怖さは、ちっぽけな人間には到底想像もできないものであることがこの合宿ではっきりわかった。

「どんこ No22」広島大学ワンダーフォーゲル部部誌より 
広大ワンゲル部1年 中村正憲(19歳)


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