シラク―ザの風、心地よく

 シチリアで最も古い都市のひとつ、シラク―ザへ行った。イタリア語学校の仲間が、「素敵」「最高」「歴史の宝庫」と最上級の誉め言葉で推奨していた。


 その言葉に間違いはなかった。ここはスペインのアルハンブラ宮殿ではないか。最初見たときそう思った。土の色合い、アーチ型の門•••。湾に蓋をするように浮かぶオルティージャ島の突端の城塞、マニアーチェ城に入ると、ごうごうと風が鳴り、時間が止まったような感覚にとらわれた。

 町の名は「シラクサ」と覚えていた。地元の人は「シラク―ザ(siracusa)」と発音している。イタリア語は、原則として後ろから2番目の語尾にアクセントを置くから、「U」がそれにあたる。それと、母音と母音の間の「S」は濁る。この場合は「ザ」となる。だからシラク―ザ。よく、大阪に住むイタリア人は「オーザカ」と言い、「オオサカ」というのが苦手だ。「OSAKA」のSも母音に挟まれている。


 9月7日朝、カターニャからバスで向かうことにした。シチリア初上陸の時、マスク騒ぎで乗車拒否に遭った、あのバスセンターへ来た。いた、いた。おじさんが乗客にマスクを売っている。「FFP2」という例の特殊マスクだ。でも、なんだか、前より包装がチャチで、幾分、布目の部分が薄くなっている。値段は変わらず1€。

 「取引現場」を押さえた。

 約1時間半ほどでシラク―ザのバスターミナルへ着いた。地図を見ると、鉄道駅の隣にあるはずが、駅への道がない。帰りの列車の時刻表を見ようと思ったが、やめた。


 バスから列車に乗り継ごうとするなら、10分か15分は歩かないとたどりつけない。バス会社とイタリアの鉄道会社は、ここシラク―ザでは互いに背中を向け合っている。何か事情があるのだろう。シチリアに来て、不便や不具合にでくわすと「何か事情があるのだろう」と考えてすませる癖がついた。


 朝から真夏の日差しである。ひたすら歩くことにした。スマホのGoogleマップに頼って、冒頭のマニアーチェ城を目指した。オルティージャ島へつながる橋を渡ると、涼風が海から吹き付けてくる。日陰に入ると涼しい。トルコ国旗を翻すプレジャーボートがあった。シチリアにはオスマントルコから逃れたアルバニア人の村もあるという。

 今回、渡航前に「地中海の十字路 シチリアの歴史」(藤原房俊)という本を読んだ。

 

 かいつまんで、聞きかじりを紹介すると・・・・(少し長いので、歴史が嫌いな人は読み飛ばしてください)。

 

 最初は紀元前8世紀に、①ギリシアがシチリアに植民市を築いた。それがシラグーサ、カターニア、アグリジェント。今から2800年も前のことである。日本は縄文時代が終わったころか。その後、ローマ帝国が6世紀の間、支配する。


 次にコンスタンティノープル(今のトルコのイスタンブール)を拠点とする②ビザンツ帝国が7世紀半ば、シチリア東岸に到着、若い女や子供を略奪した。8世紀半ば、シラクーザを襲撃し、シチリア支配の地歩を固めた。


 そして、ムハンマドの後継者カリフを元首とするイスラム人の③サラセン帝国の時代が始まる。902年、タオルミーナでビザンツ軍を撃破した。以来、シチリアは2世紀の間、サラセンに支配された。ただ、キリスト教徒を虐殺したわけではなく、イスラム教へ改宗しなければ人頭税などを課したぐらいで、共存の道を選んでいる。


 そして11世紀後半、北フランスの④ノルマン人がシチリア支配を始める。シチリア王国初代国王ルッジェーロ2世(1130-54年)は、イスラム人の信仰を認め、土地財産も収奪しなかったという。シチリアは、キリスト教とイスラム教が調和した珍しい土地ともいえる。


 そして、冒頭のマニア―チェ城を築いたのがフェデリコ2世。ノルマンと⑤ドイツの血を引くこの王様(1194~1250)は、六つの言語を操り、アンチキリストだったという。

 次に⑥スペインのアラゴン王朝が来てから、目まぐるしく支配者が変わり、ナポレオン時代は英国の保護下にあった。19世紀、ガリバルディによってイタリアが統一に導かれることになる。


 第2次世界大戦ではファシスト政権(ムッソリーニ)が誕生し、ドイツ、日本とともに枢軸国として戦い、敗戦を迎える。ちなみに全体主義を意味するファシズム(fascismo)はイタリア語で、ムッソリーニが提唱したイデオロギーだと、タオルミーナの学校の先生が教えてくれた。


 シチリアは、1から6まで様々な帝国の侵略を受けてきた。


 シチリアが地中海の「十字路」と言われる理由がよくわかる。言ってみれば「玄関マット」のような島とも言える。誰かが踏んで通り過ぎていく。そして、次の誰かも踏んで通り過ぎる。逆に見れば、誰もが来たくなる、作物の豊かな島なのだろう。19世紀に「シチリアの政治問答」という本を出版したアマーリはこんなことを書いている。「神はシチリアを他の大陸から切り離し、敵から守るために、周りに海を巡らし、多くの人々の生活を支えるために、あらゆる産業、あらゆる交易に適した温暖な気候と肥沃な土地にした」と。


 武力を携えた強い者たちにひたすら踏まれながらも、シチリアの人々はしたたかに専守防衛に徹して生き抜いてきたのだろう。

 マニア―チェ城の砦に空いた穴から、イオニア海の青が見えた。ギリシア、ローマ、ビザンツ、サラセン、ノルマン、アラゴンと、武装船団に戦々恐々とした人々の思いが伝わってくる。


 風が心地よい。今はシラク―ザという玄関マットを踏んで、多くの観光客が訪れている。

 マニアーチェ城から、シチリアで最も古いギリシア劇場まで歩くことにした。

 その途中、サンタ•ルチア教会にあるカラヴァッジョの絵を見た。「聖ルチアの埋葬」。それは、額縁もなく、無造作に置いてあった。こんな、飾られ方をして本物なのだろうかと疑ってしまうが、一瞬を切り取った迫力がすごい。
 ギリシア劇場は結構遠かった。途中、タクシーがいたら、拾おうかと思ったが、いない。そういえば、シチリア滞在中に、流しのタクシーを一度も見ていない。


 ギリシア劇場は急坂を登った上にあった。眼前にイオニア海が広がる。絶好のロケーションである。紀元前3世紀の建設というから、2200年前である。当時で1万5千人収容という。グラディエーター(剣闘士)たちの闘いに、観衆は熱狂したのだろうか。日本では銅鐸を埋めて祈っていた時代に、である。

 シラクーザは、まだ、真夏の風情だった。しかし、海風が暑さを癒やしてくれる。喉が乾くと、オープンデッキにも立ち寄れる。日帰りではなく、じっくり腰を落ち着けて散策したくなる古代都市だ。

 この日歩いた距離は17・2キロとスマホの歩数計が表示していた。











定年後、荒野をめざす

五木寛之の「青年は荒野をめざす」に感化され、22歳の春、旅に出た。パキスタン航空の格安チケットを手に入れ、カリマーのアタックザックひとつでアジア、ヨーロッパをさすらった。そして再び、旅心に囚われ、36年間勤めた新聞社を辞め、旅に出る。(中村 正憲)

0コメント

  • 1000 / 1000