ジェズ教会の裏部屋

  光が降ってくる。ローマにあるイエズス会の総本山「ジェズ教会」の天井に近い窓から、床と礼拝用の椅子に太陽の光が降り注いでいた。

   3月25日正午、ローマ駅近くのホテルから歩いてこの教会に来た。イタリア語でgesuと書いて、ジェズウと発音する。文字通りイエスのことだ。キリストの受難の絵が、これでもかというぐらい壁や天井に描かれている。この光は神の降臨を表す舞台装置として、相当な効果を発揮したに違いない。


  長崎港から船に乗ってローマに着いた少年4人も、この光を見たのだろうか。遠い昔の1585年、イエズス会の布教活動でキリシタンとなった大名たちのミッションを帯び、天正遣欧少年使節団の少年4人は3年もかけてローマに着いた。バロック様式のこの教会が完成して5年後のことである。

    長崎港から船で3年なのだ。成田から直行12時間で来るのとは訳が違う。中浦ジュリアンはじめ、みんな10代の子供たちだった。いまどきのエベレスト登頂よりも、過酷な冒険だっただろう。

  しかし、それから四百数十年後には手のひらに収まる薄っぺらな板で通話できてしまう世界になるのだから、なんとも気軽なローマの旅よ。すまぬすまぬと思いつつ、今夜も赤ワインを飲んでいる。


  実はこの教会にプルツォーネの絵があると聞いてトレビの泉やスペイン広場を差し置いて、まず尋ねたのである。プルツォーネは、大阪・中津の南蛮文化館に飾られている「悲しみのマリア」の作者ではないかと言われる。この絵は日本にあるイタリア絵画の最高傑作と、その筋の権威、神戸大大学院教授の宮下規久朗さんに教わった。

  なぜ、プルツォーネの筆と思われる絵が大阪にあるのかというと、元々は福井の隠れキリシタンの医者の家にあったのが、巡り巡って大阪へやってきたのである。話が長くなるので、ジェズ教会に場面を戻す。

    教会の右手の入り口にあるブックショップのおじさんに、プルツォーネの絵があるかと聞いた。するとおじさんから「ジャポネーゼ?」と逆質問され、「1分待て」と言われた。「きっとあるんだ」と思っているとショップの背後にある扉を開いて「こっちに来い」という。おじさんは、一般の人が行けない事務室みたいな部屋の灯りをつけ、「ここに3枚の絵がある」と言って、部屋を出て行った。

   絵を見て驚いた。16世紀ごろの日本の絵が3枚あった。棄教を拒んだキリシタンたちが、侍たちに惨殺されている。豊臣、徳川による禁教令が出された時代と思われる。プルツォーネでもなんでもない。

   というか、僕のイタリア語は全く通じてないじゃないか。

   それはおいといて、これらの絵もオートラントのドーモに飾ってあった殉教者たちの骸骨と同じ、「殉死の図」である。
  宮下さんにメールで問い合わせると、この絵は1622年の「元和大殉教」の情景で、マカオに追放された日本人が描いたというのが定説なのだという。
  この話、次回に、続きます。

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五木寛之の「青年は荒野をめざす」に感化され、22歳の春、旅に出た。パキスタン航空の格安チケットを手に入れ、カリマーのアタックザックひとつでアジア、ヨーロッパをさすらった。そして再び、旅心に囚われ、36年間勤めた新聞社を辞め、旅に出る。(中村 正憲)