悲しみのマリアのルーツを探して

  この絵が「悲しみのマリア」。16世紀にローマかどこかで、プルツォーネ    (本名シピオーネ)が描いたんじゃないかといわれている。今は大阪の中津の南蛮文化館に飾ってある。絵の前に立つと息を飲むほどの美しさだ。

   だが、キャンバスには縦横に線が入り、傷みが激しい。この絵は明治か大正になって、民家の土壁の中から見つかった。竹筒の中に折りたたまれて入っており、傷はその時にできたものだという。場所は福井駅から歩いて15分ほど行った奥田という医者の家。今は転居したらしく、その家はない。

   奥田さんの祖先はキリシタンだった。福井藩の城下で医者をしていた。キリスト教に理解があった柴田勝家のころは良かったが、豊臣秀吉が実権を握ると迫害が始まった。15世紀末、奥田藩医は江戸に送られ、拷問のうえ、獄死したと伝わっている。

  彼が所持していたイタリア絵画の傑作は、キリシタン信仰によって代々守られてきたのだ。
  上の絵は、プルツォーネが描いた聖母。悲しみのマリアに驚くほど構図が似ている。この絵は個人蔵で見られないため、イエズス会総本山のジェズ教会にプルツォーネの絵があると聞き、探しに行った。

  すると、裏部屋に案内され、隠れキリシタンの迫害の絵を何枚か見せられたのだった。部屋には日本語で書かれたこんな盾も置いてあった。世界遺産になった長崎のキリスト教群の教会をイラストで紹介している。
  今年はローマ法王が広島、長崎を訪問するという。そんな因縁もあるからか、日本のことを紹介しているのだろう。と考えながら、裏部屋を探検していたら、こんな絵を見つけた。どこか、プルツォーネの絵に似てはいないか。
  ブックショップのおじさんに聞いたら、ノンロッソ(知らない)と言われた。

   ここからはジェズ教会で考えた想像の世界。

   16世紀のローマ。マルティンルターの宗教改革で危機感を抱いたイエズス会は、カトリックの権威を取り戻そうとアジア布教に目をつけた。フランシスコ・ザビエルのような宣教師を各地に送りこみ、同時に有能な画家たちに聖母マリア像を描かせた。キリスト教を広めるためのいわゆる拡販用の道具だ。その中に一枚の絵「悲しみのマリア」があったのだろう。絵は各地で配られ、福井藩の医師の奥田家が授かったものだけが、現代に残った。

  ローマと福井、そして中津の南蛮文化館は400年以上も昔につながっていたんだと、確信を深めた。そのすべてのミッションは、このジェズ教会で練られ、日本にキリスト教が広まる源になった。

  教会に注ぐ光の下に立ってみた。
  故郷の長崎の記憶がよみがえる。

  僕の父は俳句が好きで「寝墓(ねばか)」という言葉をよく使っていた。いわゆる墓石が立っていない墓のことだ。住んでいた所から車で30分ほど行くと隠れキリシタンの集落、外海地区がある。ここの斜面にはたくさんの寝墓がある。隠れキリシタンは、死んでも見つからないように墓石を寝かせた。息を潜めて生きた人たちの辛苦を偲ぶ痕跡だ。

  どれだけ、この光の下に立ちたかっただろうか。 
                                                    (中村 正憲)

※悲しみのマリアについては、2017年5月の朝日新聞大阪版連載「イタリアを探して」に詳しく書きました。

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