17世紀の修道院を改装したホテルで最後の夜を明かした。午前6時、窓を開けると、車のエンジン音やガラス瓶をかき集める音や、誰かの口笛やらで騒々しい。ポポロ門へ続く通りにやっと朝日が当たり始めた。静かな夜明けだったプーリア州オートラントに比べると、ローマは朝から喧騒。だけど遠くから鐘の音が聞こえて来るところが、東京や大阪とは違う。
半島の踵のオートラントで1カ月、そして膝頭のローマで1週間過ごし、今、フィウミチーノ空港で香港行きの飛行機の搭乗を待っている。
世界史大好き人間だった僕にとって、イタリアの歴史の厚みには、まいったと言いたい。2000年ごろ、朝日新聞奈良支局のデスクをしていたときに、8世紀のキトラ古墳から朱雀の壁画か発見されたのに大騒ぎしたが、こちらに来ると何のことはない。
古さの桁が違う。ロカベッキアというサレントの海岸では、3000年前から15世紀ぐらいにかけての壁画がたくさんあって、その周囲は落書きだらけだった。ローマでは、2000年前の水道が、未だに使われている。日本でこんな公共事業は聞いたことがない。17世紀のホテルなんて新築と言ってもまんざら、はったりとも言われないだろうな。
ブログを読んでくださったみなさんに、何枚かの写真で、旅の余話をお届けします。
◼️踵に当たるサレント地方には、地図で数えるだけで海岸沿いに50の塔がある。サラセンの海賊や、海から攻めて来るオスマントルコ軍を警戒していた。海上で怪しい船を見つけると、火を焚いて隣の塔に煙で知らせた。いわゆる狼煙だ。
◾︎オートラントでは、パスタはなんといっても オレキエッテ。その形が子供の耳に似ている。Orecchioという「耳」という言葉から命名された。ちょっとした道具をそろえれば、作り方は簡単だ。うどん棒があるのに驚いた(右端)。
◾︎オートラントでは宿舎はB&Bを利用した。毎日掃除してくれるララさんに折り紙を教えたら、えらく感動して、食堂に飾っていた。
◾︎宿の人たちは、みんなシンパティコだ。フレンドリーだ。右のララさんも、宿の兄貴のサルバトーレも、日本人としゃべるのは初心者。盛んにおはよう、ありがとう、ごちそうさまを覚えていた。
◾︎自動車は、ハンドルをロックする。初めて見た。それだけ盗難が多いということ。一番の盗難対策を現地の某報道カメラマンに聞くと、いい車に乗らない。洗車しない。ちなみに彼はトヨタのヤリスに乗っていた。
◾︎これはゼッポラというお菓子。イタリア では父の日に食べる。父とは当然、イエスのおとっつぁんの誕生日だ。3月19日が父の日で、ちょうどその日にジャアダ先生と食べた。
日本に父の日はあるかと聞かれて「6月の第3日曜日だけど、みんなあまり真剣に祝わない。よく忘れられる」と答えておいた。
◾︎ イタリア人というのはホントに壁画が好きだ。そして、男たちはドンナが大好きだ。あっけらかんである。B&Bの浴室にもこんなのが、描かれていた。写真は上半分だが、全身を描いていた。
Non posso dormire.
ララさんに言うと、大声で笑った。
◾︎イタリア最東端の灯台。パラチャ岬。多くの人が初日の出を拝みに来るそうだ。オートラントから自転車で訪ねた。アドリア海の強風にたじろいだ。
オートラントにもローマにもたくさんのねこがいた。どのネコも幸せそうだ。シーザーが殺された神殿の一部は、公が認めたノラ猫の住処になっていた。
そろそろ搭乗の時間が近づいてきた。スマホのbgmは、来た時と同じアローンアゲインで。
イタリア 語で
Ancora solo.
定年後、荒野をめざす
五木寛之の「青年は荒野をめざす」に感化され、22歳の春、旅に出た。パキスタン航空の格安チケットを手に入れ、カリマーのアタックザックひとつでアジア、ヨーロッパをさすらった。そして再び、旅心に囚われ、36年間勤めた新聞社を辞め、旅に出る。(中村 正憲)
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