遥かなるハルハ河 4 バルガ族

  ノモンハン戦争が終わった1939年の11月28日から3日間、勝利したソ連とモンゴルは、国境を開き、モンゴル人の帰還を認めた。

  1966年生まれのトゥメンさんは、日本・満州軍と一緒に戦ったバルガ族と呼ばれる民族だ。トゥメンさんの母親の兄は、激戦地から生還し、満州国から勲章をもらった。

  そして戦争が終わってハルハ河を渡り、帰還した。まもなく日本のスパイとして処刑された。

  ハルハ河が注ぐボイル湖沿いのゲルキャンプで、トゥメンさん=写真下=は、母から聞いた「おじ」の悲劇をとつとつと語った。モンゴル研究家の田中克彦さんによると、実は1930年代、モンゴルの政治家、軍人、僧侶ら約3万人が反ソ陰謀のかどで処刑されたという。権威に背くものの生きる場はなかった。
 そして、バルガ族のトゥメンさんは「祖父の話を聞いてください」ともう一人の「おじ」の話を語り始めた。

  サガンウルトゥという内モンゴル(今の中国)の町で、1930年代に起きた出来事としか分からない。汽車に乗っていた祖父は、6、7歳の男の子に手を握られた。青い服とズボンをはいていた。モンゴル語が話せないが、くっついて離れない。その少年はアラキと名乗った。ポケットに日本語の新聞の切り抜きが入っていた。

  日本人の子どもに違いない。身寄りがなく、置き去りにできないと、祖父はその少年を家に連れ帰った。
   アディアと名づけ、家族と一緒に育てた。トゥメンさんの母は、2歳下の弟ができたと喜んだ。イケメンだったと、母は言っていた。

  ところが、20歳になったある日、アラキ君は突然姿を消した。

   2002年、母は日本の大使館に手紙を書き、アラキ君の消息を尋ねた。返信はあったが、60年前の情報は分からないと返事が来た。母はとてもがっかりした。
  
 トゥメンさんの二人の「おじ」の話から、戦争の本質は家族を引き裂くものであることがわかる。

日本・満州側が陣地にしたノロ高地に立つトゥメンさん(右)と田中克彦さん
 ソ連はモンゴルという傀儡(かいらい)国家を、日本は満州という傀儡国家を築き、そこに住む民族を分断した。遊牧民ハルハ族とバルガ族という別れた民族は、モンゴル人としての統合を求めた。彼らの接触が、戦争の発端となったのだ。

  戦争は戦場で散った兵士のほかに、その地に住んでいた人々の土地や命を奪った。無数の血を飲み込んでハルハ河はいまも流れている。
↑  ハルハ河に注ぐハイラースティーン川
↑  ハルハ河で釣れたマス。子供たちが清流でルアー釣りを楽しんでいた
↑  戦場の陣地図。現地の勝利博物館に貼ってあった

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五木寛之の「青年は荒野をめざす」に感化され、22歳の春、旅に出た。パキスタン航空の格安チケットを手に入れ、カリマーのアタックザックひとつでアジア、ヨーロッパをさすらった。そして再び、旅心に囚われ、36年間勤めた新聞社を辞め、旅に出る。(中村 正憲)