=ノモンハン戦争の平和慰霊碑前に立つモンゴル国文化大使の佐藤紀子さん。慰霊碑は彼女の尽力で18年前に現地に建立。刀の背を向けたデザインで、日本、モンゴル、ロシア3カ国の平和を祈る。
砲声とどろきしこの戦場に平和の法音永遠にひびけよ
ノモンハン平和慰霊碑には、こう刻まれている。日本語の下にモンゴル語、そしてロシア語の3カ国語で同じ意味をつづる。2001年7月に知恩院が建立した。その段取りの一切をつけたのが、佐藤紀子さんだ。
今回の80周年慰霊団も、彼女の呼びかけで実現した。七夕に開かれた慰霊祭には、大分県の医師松本文六さんの姿もあった。同じく医師だった父親の草平さんは30歳で軍医として従軍した。20人中1人しか生還できなかったこの戦争で生き残った。
↓ 3カ国語で刻まれた文
↑ モンゴル国立馬頭琴交響楽団のアマルバヤルさんが慰霊碑の前で鎮魂の曲を演奏した。
松本さんは「父は帰国してからノモンハンのことを一言も話さずに死んだ」と話した。
ただ、貴重な体験を書き起こした手記が残っていた。その中にこんなくだりがある。戦いの作戦参謀だった辻政信少佐について、「なぜ地形的にも絶対不利な条件のもとで戦いを挑んだか。そこにはうぬぼれと、攻撃精神なくしては軍人の資格なしと豪語する狷介固陋の自己顕示的な軍人精神のみが読み取れる」と記している。
さらに、辻少佐は地形的な知識、測量数理の面ではむしろ無知に近かったと想像される、と言い切っている。兵たちは、この辻少佐に対して「無謀、横暴、乱暴の三ボーであると名言はいて、彼に贈る称号とした」と記述した。
辻少佐が実質的に指揮する関東軍は、ソ連側の陣地より低い場所に陣地を築き、敵から丸見えだったのだ。初めから勝ち目はなかった戦争であることが、実際に戦った兵士の口から漏れている。
だが、現地軍第23師団(小松原道太郎団長)も、関東軍(植田謙吉司令官)も、参謀本部も大本営も勝算なき戦いになんの手立ても打たなかった。
松本さんは「父の本を読めば、日露戦争レベルの武器でのぞんだ、思いつきの戦争だったことがわかる」と話した。
文六さんは一昨年、その手記を書き起こし、父の名前で「茫漠の曠野ノモンハン」(東方通信社)を出版した=写真下
日本陸軍は一応、ノモンハン戦争の教訓を文書化している。そこにはこうある。
「国軍伝統の精神威力をますます拡充する」
つまり、精神力が足りなかったというのだ。なるほど、どの負け戦にも使える文言である。ナルシズムの臭いすら漂う教訓に、この程度の陸軍しか持てなかったこの国の不幸と不運と哀れさに言葉が出ない。
辻の責任は問われることなく、南方でも無能ぶりを発揮し、多くの兵士や現地の民を死に追いやった。にもかかわらず、戦後、石川県民の支持を受け、国会議員に当選している。
↑ 父親が従軍した戦場跡にあるノロ高地に立ち、ソ連側陣地を眺める松本文六さん
今から80年前、ノモンハンでは砲声がとどろいていた。128日間の戦争で少なくとも双方で4万人が死傷した。1日当たり、300人が倒れた計算になる。
そして2年後の12月、日本は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。ノモンハンで敗れたため、北進をあきらめ、南下作戦をとる。1944年の七夕にはサイパンが陥落、そして、フィリピン、沖縄と地上戦で惨敗し、広島、長崎に原子爆弾が落とされた。
ノモンハンの敗戦をきちんと分析していたら、こうした惨禍は防げたのではないか。
戦場は草木が伸び、錆びた鉄たちは自然に回収されようとしていた。(終わり)
↑ 戦場にはルリタマアザミが咲き始めていた
定年後、荒野をめざす
五木寛之の「青年は荒野をめざす」に感化され、22歳の春、旅に出た。パキスタン航空の格安チケットを手に入れ、カリマーのアタックザックひとつでアジア、ヨーロッパをさすらった。そして再び、旅心に囚われ、36年間勤めた新聞社を辞め、旅に出る。(中村 正憲)
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2019.07.18 23:47
2019.07.18 03:53