なんと神々しい姿だろう。日本に生息する最大の動物だ。こやつ、川の中をゆっくりと歩き、何かを見つけたのか急に走り出した。体長は2メートル近くありそうだ。一頭の個体が発する威厳と風格に、釘づけになった。アイヌがカムイ(神)と呼んで崇めたはずだ。
辺境を目指す旅を続けているが、日本ならここしかない。北海道の知床半島。アイヌは「シルエトク」(地の果て)と呼んだ。オホーツク海に突き出た地の果てでヒグマは出迎えてくれた。
広島大学のワンダーフォーゲル部の夏合宿で二度、この地を訪れた。一度目は1978年7月。日高で大学生たちが食い殺された実話、「ヒグマとの戦い」という本を読んで、衝撃を受けた後だった。
ヒグマとの遭遇は、死と直結すると頭に刻み込んだ。羅臼岳から硫黄山を縦走し、イダシュベツ川を下るときに、日が暮れた。ヒグマの気配の濃厚な場所でビバーグする羽目になった。襲われたら一貫の終わり。サブリーダーが何回も爆竹を鳴らして、我々の気配を熊たちに知らせ続けた。7人のパーティーの誰もが沈黙の中で夜明けを待った。
翌朝、パーティーのみんなは無事だった。イダシュベツの水は硫黄分を含んで飲めない。朝飯は喉を通らず、ひたすらオホーツクを目指して藪をかき分けて進んだ。密林の中から沖を行く船体の鮮やかな白を見たとき、海だと叫んだことを覚えている。その後、担いで来たゴムボートに空気を入れ、知床岬を目指した。
⇧ イダシュベツ川に架かる橋。1978年、ここから川沿いを歩いてオホーツクを目指した。踏み跡はなく、40キロのキスリングを背負って7人の男たちは薮の中を進んだ。
⇧ 羅臼岳(右)から硫黄山へ続く知床の山並み
1978年と1980年の夏に知床の山に登って、ゴムボートで知床岬を目指した。あの頃はただただ、ヒグマには出会わないように注意したことを覚えている。
あれから約40年。
2019年9月8日午前10時50分、岩尾別川に架かる橋の上に人だかりができていた。車を降りて橋から下流を見ると、約80メートル先に黒茶色の毛並みのヒグマが動いていた。マスを探しているのか、水の中でしぶきを上げていた。
望遠レンズで姿を追った。じっとしているかと思うと川に飛び込んだ。だが、獲物は取れない。美しいフォルムだ。
ヒグマと遭遇した31分間の記録を貼り付けます。
現場を訪れた知床財団の専門家に聞くと、知床では年間1000件の目撃例があるそうだ。人的被害は報告されていない。
昔、広島のツキノワグマを取材している時に、九州のクマが絶滅して何か困ったことがあるだろうか、と聞かれたことがある。
そういう人たちには、アメリカの学者E・Oウィルソンの言葉を送りたい。
人間などいなくても動植物は平気で栄えていくだろうが、自然なしには人間は死滅するほかない。
定年後、荒野をめざす
五木寛之の「青年は荒野をめざす」に感化され、22歳の春、旅に出た。パキスタン航空の格安チケットを手に入れ、カリマーのアタックザックひとつでアジア、ヨーロッパをさすらった。そして再び、旅心に囚われ、36年間勤めた新聞社を辞め、旅に出る。(中村 正憲)
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