赤道を超えた。エアアジアの機体の窓から、光る海が見えた。インド洋だ。赤い羽の向こうにバリの街並みが見える。煉瓦色の瓦は沖縄の八重山の民家にそっくりで、海がつながっていることを実感する。
リタイア後、フィリピンの辺境の島、イタリア半島のかかとにある小さな町、モンゴルのノモンハンを訪ねた。通算の移動距離は4万キロを超えてしまった。
そして4度目の渡航は、生まれて初めての南半球である。10月7日昼、インドネシアのバリ島に着いた。気温は30度を切っていた。しかし、運転手は「これから暑くなる」と言った。そうなのだ、南半球は夏へ向かうのである。
この島に定年後、住み着いた先輩の家をたずねた。デンパサール空港から車で約1時間ほどのところにある。500坪の敷地には3棟の大きな木の家が立ち、庭のプールで老犬が水を飲んでいた。
日本の新聞社で社会部長まで勤めたHさんは、60歳の定年を迎えた1999年にバリ島に移住した。以来20年、今は村長(むらおさ)のような風格だ。
夕暮れどき、壁のない吹きっさらしのテラスで、
ビールをいただきながら「どうしてバリ島なんですか」と聞いた。
「まもなくそれが分かりますよ」と彼は言い、西の空に目をやった。
日が沈むと空が茜色に染まった。やがて宵闇が全体を包む。陳腐な言葉しかつかえないが、息を呑んだ。時間がゆっくりと流れている。
彼は村の共同葬儀が始まるからと、暮れなずんだ村を案内してくれた。白い服を着た多くの老若男女がヒンドゥーの寺院の門前に座り、寺内で始まる儀式を待っていた。ヒンドゥーは毎日のように冠婚葬祭に関わる儀式があるという。
生後3カ月を迎えた赤ん坊を土の上に立たせる行事。結婚前の男女の犬歯を削る儀式。これらは準備から始めると1日ではすまないそうだ。そしてバリの暦で新年を祝うニュパ。この日は誰もが外出をしてはいけない。その日はけがや病気に気をつけないといけないそうだ。救急車も走らないというのだ。
日本の常識では考えられないことに、Hさんはすっかり馴染んでいる。「日本のビジネスマンは、ここではやっていけない。価値観が違う」と彼は言う。バリ人は様々なヒンドゥーの行事や儀式に出るため、たくさんの休暇を求めてくるという。ま、仕事にならない訳である。
晩ご飯が美味かった。雇われているお手伝いさんの手料理だった。白いご飯に、4種類のバリ風のお惣菜を載せて食べた。やがて、この場所を気に入って住み着いてしまった娘と、米国人の夫、7歳と高校生の孫たちが帰って来た。全員で食卓を囲む。
先輩の目尻が明らかに緩んでいた。
バリは世界的な観光地になっている。でも、少しひなびた場所へ行くと、金を貯めることより、地域や家族のつながりを優先する暮らしが延々と続いているのだ。とうの昔に日本が失ってしまったものがこの島には残っている。
定年後、荒野をめざす
五木寛之の「青年は荒野をめざす」に感化され、22歳の春、旅に出た。パキスタン航空の格安チケットを手に入れ、カリマーのアタックザックひとつでアジア、ヨーロッパをさすらった。そして再び、旅心に囚われ、36年間勤めた新聞社を辞め、旅に出る。(中村 正憲)
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