赤島へ渡る(下)

 「海の青さをもう一度伝えるために いま 瞳をとじて」

 五島の海を見ると、荒井由美の歌を口ずさんでしまう。1974年リリースの「瞳を閉じて」は、五島の高校生へユーミンが贈った歌だ。ここの海の青さは、ホント、見たものにしか伝わらない。

(写真の場所は福江島の三井楽)



<赤島へ渡る 上 から続く>


 14年前に亡くなった父親は、五島の赤島についてあまり多くのことを語らなかった。


 19歳で陸軍の特別幹部候補生の試験を受けた矢先、結核で長崎医科大の病院に入院させられた。昭和20年春、転地療養を薦められ、島に渡った。五島の福江島は長崎市から西へ100キロ、赤島はそこからさらに12キロ離れた孤島である。不遇をかこった辺境の名もない島での療養生活だ。子に語るような誇れる話は何もなかったに違いない。


 だが、父に聞いた三つの出来事を僕は覚えていた。

 代用教員を務めた小学校の校舎が火事になったこと。

 米軍機が墜落し、岸に流れ着いた米兵を助けたこと。

 8月9日の夜、東方の長崎の町がオレンジ色に染まったこと。 


 今となっては確かめる術もない。

 と思っていた。


 ところが、現場を踏むと、何かしらの手がかりがあるものだ。


 赤島航路の船で一緒になった島民の女性が、「今村さんなら古い赤島の話を知っている」と家へ案内してくれた。

 「今村さーん、お客さん」

 軒先から女性が呼びかけると、白髪の男性がランニングシャツ姿で出てきた。突然の来訪客に驚いた様子だった。



 僕は、父が昔、この島で先生をしていたという事情を話した。


 今村「お父さんの名前はなんていうとですか?」

 私「中村甚一」

 今村「中村ねぇ、どっかで聞いたこと、あっごたっけど」

 しばらく考えこんだ。だが、思いだせないようだった。

 今村「戦後に来た先生の名前なら知っとる。ショウジという人で、島の娘と一緒になったと」


 今村泰己さん、80歳。20年前、福江市役所を退職して生まれ故郷の赤島に戻って暮らしている。そのころの赤島は無人化寸前、人口は5人に減っていた。


 島に電気は通っているが、水道がない。井戸を掘れば塩水がまじり、これといった水源も見つからない。島民は雨水をためて生活用水を確保した。日照りが続いたら、残った雨水を節約しながら大切に使うしか術がないのだ。そんな暮らしは今も変わらない。それでも島民は少し増えて今は14人が暮らしている。


 今村さんは「昭和15年2月生まれ」と言った。終戦の年はまだ5歳。とすれば、まだ小学校には入っていない。父が働いた学校に通うには幼すぎた。


 島内の学校跡に案内してくれた。「ここが教員宿舎だった」と今村さんが指さすほうに、朽ち果てた掘立小屋が建っていた。


 破れた扉から中に入った

 4リットルの焼酎容器が横向きに倒れていた。「壱岐」という文字が読める。「青森リンゴ」と書かれた段ボール箱がかろうじて形状をとどめていた。窓が傾き、倒れた襖は、雨水に濡れて歪んでいた。周りは夏草が群生し、子どもたちの歓声が響いた過去を想像するのは難しかった。

 

 

 


 今村さんは、子どものころの記憶をたどった。

 日付けはわからないが、米軍機が島の校舎に焼夷弾を落としていったという。「帰還途中、おそらく余った焼夷弾を島の上空で処分したのだろう」と言った。赤島には水がない。火事になれば、ひたすら鎮火を待つしかないのだ。


 父に聞いた話では、炎に包まれる校舎に入ろうとする用務員がいた。「なんしに行くとか」と聞くと、「御真影が」と用務員は言った。「命んほうがが大事かやろが」と必死に引き留めた。当時、天皇の写真は命より大事なものだったと聞いた。

 そんな馬鹿なことがあるか、と言いたげな父の顔を思い出す。


 赤島ではカツオと伊勢エビ漁、イカ漁が生活を支えてきた。

 「今は産業がなかもんね」と今村さん。


 帰りの船の時間が近づいてきた。今村さんは、すぐそこだからと島の水源の場所まで案内してくれた。雨水を集めるパネルが太陽光パネルのように並んでいた。降った雨水が重力で一か所に集まる原始的な装置だった。


 「都会の新聞やテレビはコロナコロナと騒いでいる。でもこの島の問題は水。日本でただ一つの雨水に頼る島のことに、見向きもしてくれん」と今村さんはつぶやいた。


 午後3時40分、福江島に帰る船が赤島の岸壁に着いた。今村さんと、今村さんの家を教えてくれた釣永さんという女性に手を振って別れを告げた。わずか滞在1時間で、空想の島は現実の島になった。


 今村さんのもう一つの記憶。「昭和20年、お盆になっても長崎の方がオレンジ色に光りよったと」


 赤島から見た原爆の光景だった。8月9日の原爆投下から4、5日たっても、100キロ先で燃える町が見えたという。父が語った情景と同じだった。


 島民には新型爆弾が落ちたとすぐに伝わったという。父は親兄弟のいる長崎にすぐに帰省した。幸運にも、稲佐山のふもとに暮らしていた父母は無事だった。しかし、叔父の一家は爆心地で全滅していた。そして、父が入院していた長崎医科大も一瞬で倒壊、炎上し、学生、医師、看護婦ら約900人が亡くなったと伝えられている。



 「長崎原爆の日」が近づくと、ある離れ小島のことをいつも思い出す。その島に渡り、命をつないだ男がいたことで、僕はいま存在する。


 8月9日、長崎への原爆投下から75年目を迎える。亡くなった人たちとその家族、友人、恋人たちの悲しみ、悔やしさを思う。しかし、紙一重で生き残った人たちの世界が今、きな臭い。


 性懲りもなく、核爆弾保持競争を続けている。


 米国の科学誌「原子力科学者会報」が発表する終末時計は今年、核兵器使用による人類滅亡までの時間を「残り100秒」と計測した。冷戦が終わった1991年に残り17分だったのが最長で、以降どんどん短くなり、2020年は最も危機が進んだ年になった。


 核抑止という空想の軍事ゲームを終わらせるにはどうしたらいいのか。ナガサキ、ヒロシマで起きたことを、その場所を訪れて体感するしかあるまい。



 離岸した船はすぐに全速力で走りだした。後方デッキに立つと、白い航跡が赤島に続き、どんどんと長くなっていく。そこにいた時間が、後ろへ後ろへと置き去りにされていく。

 しだいに島影が薄まり、10分ほどで何も見えなくなった。

 でも、赤島はもはや空想の島ではない。現実の島として、戦争の一つの記憶として伝えることができる。水のない島に、いまも14軒の暮らしがあることも知った。廃村の危機にさらされていることは間違いない。しかし、まもなく、元国鉄マンがこの島に移り住んでくるという。15軒に世帯が増えるそうだ。今村さんが嬉しそうに話してくれた。   (元朝日新聞記者・中村 正憲)


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五木寛之の「青年は荒野をめざす」に感化され、22歳の春、旅に出た。パキスタン航空の格安チケットを手に入れ、カリマーのアタックザックひとつでアジア、ヨーロッパをさすらった。そして再び、旅心に囚われ、36年間勤めた新聞社を辞め、旅に出る。(中村 正憲)