8月21日、フライドバイの飛行機がイタリアはシチリア島のカターニア空港に近づくと、満席の機内から弾んだイタリア語が聞こえてきた。バベーネだとかチェルト、ファッチョという意味のわかる言葉を聞くと何だかうれしい。3年前のオートラントに続き、今回は、タオルミーナのイタリア語学校に通うことにした。地中海最高峰のエトナ火山を横目に、飛行機は着陸態勢に入った。
午前11時50分着陸。初めて、シチリア島に降り立った。関空からドバイ経由で16時間25分。乗り継ぎの待ち時間を入れると20時間以上かかった。
去年の8月11日、シチリアで48•8度という欧州最高気温を記録したという報道を覚えていただけに、機外に出るのが怖かった。直射日光が肌を刺すが、湿度は低い。カラッとした風が吹くと、大阪の都心の真夏よりはまだましだと思える。
カターニア中心街のバスターミナルまでタクシーで行く。32ユーロ。語学学校がある目的地、タオルミーナ行きのチケットをカードで買い、バスターミナルへ。何人かに道を尋ねながらたどり着き、13時発の高速バスに間に合った。
バーコードが印字されたチケットを運転手に見せると、チケットには目もくれず、「そのマスクじゃダメだ」と言われた。スポーツ用のマスクから、不織布マスクに変えて乗り込むと、「それでもダメだ」と拒否された。
発車1分前。満員の乗客の視線が痛い。どうしたらいいのだ。重さ18キロのモンベル のザックが肩に食い込んで、早く下ろしたい。
すると運転手は、自分が付けているマスクを指差した。他の乗客も同じマスクだ。僕は持っていない。「ノンチェ」と言うと、最前列の席にいた若者が「あそこで売ってる」と指差した。古びたビルの1階に売店があった。
遠い。 今から買いに行くと間に合わない。運転手は「次のバスに乗れ 」と無碍に言う。バスを運行する「エトナトランスポート」のチケット=写真=には、特定のマスクを着用するようにとは書いていない。
バスは無情にも出て行った。
2019年末、中国で感染が確認されたコロナウイルスは、次にイタリアに広がった。ロックダウンという言葉は、北部イタリアの感染地帯、コドーニョの惨状が報道されて初めて聞いた。2020年3月4日、イタリア全土の学校が閉鎖された。あの時の教訓が、辺境のシチリアでもまだ、生きているのだ。バスの乗客の着用マスクまで指定し、徹底しているのはすごい。そう思った。
一人、炎天のカターニアバスターミナルに取り残された。汗はダラダラ、喉がカラカラ。
約50メートルほど離れた売店にいき、「バスに乗るためのマスクをください」と言った。店の兄ちゃんはすぐに理解し、袋に入ったマスクを差し出した。1ユーロ。なかなか分厚いマスクだ。30分後の次のバスを待つ。
今度は即OKで乗車できた。すると、マスクをしていない二人連れの女性が乗り込もうとしてきた。「指定のマスクを持っていない。可哀想に」と思ったその時、マスク売りの親父が現れた。「マスクはいらんか、マスクはいらんか」と声が響く。もちろん言葉はイタリア語で、そんなニュアンスに聞こえた。
これほど堅い商売はない。
エトナトランスポートとマスク業者の癒着か??? 島のマスクを一手に製造販売している会社がマフィアの傘下だったりして。
そんなことを妄想していると、バスがが出発した。タオルミーナまで高速道路を使って1時間足らず。
「レガナーティ、レガナーティ」。
停留所に着くたびに、バスの運転手は大声で叫ぶ。怒られているみたいな気分になり、何か気持ちが凹んでしまう。
山の斜面にホテルや家々が立つタオルミーナには平地がない。レンタサイクル業は恐らくこの町では成立しない。リゾート地とは聞いていたが、中心部の狭い道路は車と人混みでごった返していた。ここはシチリアのハノイだ、と思った。
「とりあえずアペロール」と立ち飲みバーで注文し、名物アランチーニをつまんだ。しばらく通りを歩く人たちを眺めていた。
コメスタイの声にベーネと答えているハニカミ女子大生(たぶん)。顔馴染みとすれ違って声をかける若者。ベビーカーを押すスキンヘッド。逢坂剛の表現を借りれば、お尻が軽自動車並みの女。息子の手を引くタンクトップママ。
わずか10分ほど眺めていて、あることに気づいた。誰一人マスクをしていない。
夜の通りは、コロナ前の心斎橋か、先斗町並みにごった返していた。ここでもノーマスク。
エトナバスのマスク規律と、この落差はなんなんだ。
これがシチリアか。3000年間、様々な民族や帝国の侵略が繰り返され、混ぜこぜ文化が育まれた。多様性なんて言葉じゃ生ぬるい。なんでもありなのか、と実感する。
しかし。ああだ、こうだ、と考えても、この日の出を見たらどうでも良くなった。宿のバルコニーから、息を呑む瞬間を切り取った。シチリアの太陽にサルーテ!
定年後、荒野をめざす
五木寛之の「青年は荒野をめざす」に感化され、22歳の春、旅に出た。パキスタン航空の格安チケットを手に入れ、カリマーのアタックザックひとつでアジア、ヨーロッパをさすらった。そして再び、旅心に囚われ、36年間勤めた新聞社を辞め、旅に出る。(中村 正憲)
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