「ローマは無数の死を吸いこんだ都市だ。ローマにはあらゆる時代の、あらゆるスタイルの死が満ち満ちている」
一時期、ローマで暮らしていた村上春樹が、ある長編小説の初稿を書き上げた後、こんな文章を残している。1987年3月のことである。(『遠い太鼓』より)
6月13日、ローマの中心にあるサンタンジェロ城の屋上に登った。ここから360度、街の風景が見渡せる。ローマ皇帝ハドリアヌス(在位117~138年)の墓として知られるこのお城は、眼下をティベレ川が流れ、隣にヴァチカンの聖ピエトロ大聖堂が見える。
「死を吸い込んだ」痕跡は、屋上から各所に見渡せる。カエサルが暗殺されたフォロロマーノ、グラディエーターたちが公開で殺し合ったコロッセオ、4世紀初頭にはキリスト教徒たちも公開処刑された。当時の構造物がそのまま残るだけに、確かに死の痕跡が生々しく浮かび上がってくる。
映画「ローマの休日」で、アン王女が理髪師とダンスをした舞台がサンタンジェロ城だった。そして、母国から来た追手と乱闘となり、ギターで追手の頭を殴りつけたシーンの記憶ははあまりに鮮明だ。そのサンタンジェロ城も昔は、要塞や監獄として使われ、死の匂いがプンプンする。
↑ サンタンジェロ城
↑ サンタンジェロ城から見たローマ市街
ハドリアヌス帝は、それまでの征服戦略をやめて、帝国の安定に力を尽くしたという。ペルシャの征服を諦め、イギリス北部にケルト人の南下を防ぐ長城を築いた。帝国の広大な版図に様々な民族がいたため、多神教政策を進め、パンテオン(万神殿)を再建したそうだ。
大きくなり過ぎた国家は、やがて破綻する。
ペルシャもオスマントルコもモンゴルもサラセンも例外はない。
395年、ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国はゲルマンに滅ぼされた。無数の死を吸い込んでいるのは間違いない。
サンタンジェロ城の階段の窓から、聖ピエトロ大聖堂が見えた。古い窓ガラスは歪んでいた。ズームでそこを切り取ると、まるで絵画のような写真が出来上がった。
ローマからボローニャに出発する2日前、僕は何をしていただろうかと考えた。6月12日のことである。たいそうな意味はないが、村上春樹ファンには結構、大きな意味のある日である。
はて?
そうだ、カラヴァッジョの絵を見ていた。サンデイジ•フランチェージ教会に飾ってあるマタイ三部作。その一つ「聖マタイの召し出し」に釘付けになった。キリストが指さす相手は誰か。そのあやふやな指先に込められた意味とは。今回、シラクーザ、ローマ、ナポリ、フィレンツェで十作以上のカラヴァッジオの絵を目にした。その中で、この絵=写真下=の迫力は僕の中でベスト3に入る。
村上春樹は、ローマからボローニャへ発つ2日前に何をしたのか。
1987年3月7日に長編小説の初稿が完成した。そして、ペンで清書して3月26日に第二稿が出来上がった。4月初め、ボローニャにやって来た出版社の編集者にその原稿を渡した。小説のタイトルが決まったのがボローニャへ発つ「2日前」だったのである。「そんな直前に」と考えると、小説のタイトルなんて、さして重要でもないように思えてくる。
国内だけで1000万部を突破したあの本。当時はネットに原稿を保存出来る時代ではない。メールにのっけて、クリック一つで届けることも、もちろんできない。生原稿を携えて、治安の悪いローマ駅からボローニャへの汽車旅で、擦られたり、事故に遭ったり、はたまた、刺し殺されたりしたら、あの本は日の目を見なかったかもしれない。
村上春樹は、「ノルウェイの森」をローマで書き上げた。そういえば、キズキも直子も自殺した。全体を通して、死の匂いが伏流水のように流れる小説だったことを思い出した。これは、無数の死を吸い込んだローマで脱稿したことと無関係ではないかもしれない。そう、思えてくる。(中村正憲)
↑ 世界数十カ国で翻訳された「Norwegian Wood」。ナポリの本屋にも平積みされていた。
定年後、荒野をめざす
五木寛之の「青年は荒野をめざす」に感化され、22歳の春、旅に出た。パキスタン航空の格安チケットを手に入れ、カリマーのアタックザックひとつでアジア、ヨーロッパをさすらった。そして再び、旅心に囚われ、36年間勤めた新聞社を辞め、旅に出る。(中村 正憲)
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